わざわざすること

何かをする時にはわざわざというのが付きまとう。
別にしなくてもいいことをわざわざする。そのわざわざ度合いが強ければ強いほどそれが好きか、生活に必要か、または依存しているか。
ただ、そのわざわざというのが意外と大事なものだなぁとよく思う。

ひと昔前から、とりわけ音楽というのがそのわざわざの対象から外れてきている。リスナーの立場においてそれは顕著だ。
インターネットが普及して、大概の人がパソコンやスマートフォンを持っている。そこには音楽や映像を個別の料金を支払わずに聴いたり観たりできるサービスもたくさん存在していて、CD屋は姿を消し、CD自体も姿を消している場合もある。断捨離という言葉が流行ったように、物質は悪という潮流もあるんだと思う。
インターネットは情報だから、CD、DVD、書籍などの情報記録媒体は存在しなくてもインターネットで手に入れることができるようになっている。そうなると、人々はわざわざ映画館に出かけたり、本屋に出かけないでも済むんでしまう。物理メディアを欲している場合でも通販というものがあったりするから尚更だ。
このままだと人はわざわざ外に出なくなって、音楽を聴くのにわざわざお金も払わなくなってしまいそうだ。財と金の交換という構図がどうにも腑に落ちないことになっていて、今の経済学部の学生は何の勉強をしているのかわからなくなってしまいそうだ。でも、経済学史を見るとチャリティという言葉を目にするだろう。音楽でいうならば、もはや物理メディアは必要ないのであれば買う必要はないが、気に入ったのなら自分の払える範囲ででもその対価を支払うようにすれば、作った人に還元できる。そのインフラは整っているからもっと利用されるようになればいいと思う。それはそれでプレス工場とか、物理メディアに関連する産業を追いやることにはなるけれども。

脱線したけど、わざわざは大事。一般的にサブカルと言うとある一つのカルチャーを指していることが多い気がするけども、自分が面白いと思って興味を持ったカルチャーに触れるためにわざわざそういう情報のある場所に行ったりしていた時代があった。そのわざわざに価値があった気がする。今はインターネットでどのカルチャーも平準化されていて、昔だったら場所によっては電車で一時間とかかけて(その行為自体が付加価値は持っていたと思う)出かけないと知れなかったようなものも、検索すれば出てきたりしてしまって、簡単に手に入るものだから熱心になれないというのがある気がする。
だから、人がもっとわざわざ何かをするようになれば世の中は楽しくなるんじゃないかとか、思ってみる。
わざわざ人と関わったり、わざわざ知らない店に入ってみたり、わざわざ寝る時間を削って趣味と思ってることをしたり。
わからないけど、金と時間をつぎ込んだ相手を好きになってしまうみたいな論理が本当だったら、わざわざ何かしてればそれが好きになるはずだから、そうゆう面倒くさいことをもっとやらないとなぁと単に自分が思っている。
そうゆう日記。