letter
最近は人に手紙を書くということがなくなりました。
渡すタイミングもないし、残るものってなんかなというのもあり。
実際には残ってない可能性高いけど。
手紙にしてもメールにしてもどっちでも、文章は果たして本当に自分が思っていることなんだろうか。
6割くらいあってたら凄いことじゃないかと今朝少し思った。
一瞬一瞬湧き上がる感情は脳に電気が流れてなんだかやもやしたものが現れて、そこから得た感覚を言葉に置き換えた結果、それが好きとか嫌いとか、いいとか悪いとか思ってるんだと納得することになってるわけだから、その感覚を間違えて翻訳してしまったら通常?は好きと思うはずの”感覚”なのに嫌いと判断してしまうこともあるかもしれない。
だから好きでもない人間を好きと思ったり、逆もあるかもしれない。比較的抽象のままでいい思考の段階でそれだから、言葉に出すなんてしたらもの凄い間違いが起こるような気がする。
味覚にしたって、口の中に流れた電流の各感覚器官に流れた電流の値のバランスが総合的に見て美味しいとか判断できて、例えば酸っぱい受容器官が優れた人は何食べても美味しくないかもしれない。ただ、脳は生きるために利口で、その場合にはフィルタリングをしてくれる。”こども舌”みたいな言葉があるのは、老朽化した器官がその不味さを感じれなくなった大人が美味しく感じれるものがあるからだろう。子供の方が免疫がないのだから危険なものに不味さを強く感じる仕様なのか、はたまた生物の本能に従って甘さを求めているだけなのか。耳の事を考えると、前者のような気もしなくもない。
不思議なことに、こうゆう感じで適当な考察みたいのを言葉にするのにはあまり疑問を感じない。
単純に人と話すときとか、人に文章を書くときとか、それが苦手。
それぞれ語彙の量が違うというは常に前提としてあるから、何か言うときに説明も伴ってしまうというか、なるべく伴わせないけども、何かを伝えるというのは難しいなと感じる。
ツイッターをやっていると結構思ってもないことを言っていたり、その一瞬は本当に思ってるというか、自分の持つ語彙で瞬時に翻訳されたものがそれなのかもしれないんだけど、そんな感じだから。数秒で処理できないメールや手紙だと書いてる途中でこれ違うなとか思ったりするから困る。
単純に論理力とか集中力みたいのが欠落してるのかもしれないけど、電気を言葉に変換するのは大変な作業なはず。
それと、「なんか知らせることあったかなぁ」を考えるのが大変で、書いては別のことしたりして長いときはだいぶ時間かかる。
バグの問い合わせ来て、再現させて原因見つけて答えるくらい時間かかってる場合もときにはあるかもしれない。
そんなことはどうでもよくて、手紙を書くのって絵描くみたいに楽しかったりするから、出しもしない手紙をいろんな人に書いてみようとか思った。
でもやっぱり言葉にした瞬間、感情は欺かれてる気がしてならない。
言葉にしなければ嫌いなもの減るかもしれない。好きなものも減るかもしれない。
よくわからないけどここで終わり。
2015年3月27日