血霞に遊泳

日程: 2019.01.31 木 - 02.16 土

作家: 原田 渓杜

料金:展示のみ無料

時間:営業時間内

富士山展2.0に参加いただいた原田渓杜さんの個展です。

日々の雑思をメモアプリに書き言葉たちは溜まっていくばかりで、消費されることはほとんどなく散らかっていく。消費される場合は作品のタイトルにしたり、字が汚くて書いた本人が読み返せなくなるのでwordでタイプして印刷した普通紙を文章、単語ずつに切ってスクラップブックに貼ったりしている。そうやって幾らか言葉を消費していかないと、頭の中でその言葉たちがぐるぐる回ってついて離れなくなってしまう。最近では、Twitterは更新が早く精神が摩耗してしまうのでほぼTwitterと役割の変わらないMastodonというSNSにトゥートして言葉をそこに収納している。現在はフォローもフォロワーも誰一人として居ないので四次元の電子の海に放り投げ、いつか来るフォロワーのためにインターネット上にクローンとして生成され編集されるヴァーチャルアイデンティティの形成に勤めているかのようだ。
アルファベットと0から9の数字に36色の油絵具を無作為に割り当ててそれぞれの単色に言葉になれることを担わせる。左から右へ、上から下へ言葉を綴るように描く(書く)ことで抽象画と文章とを同居させる。溜まってしまう言葉を消費または保管するための新しいプラットホームとして始めたが、作品としてカンバスに作っていくとそのメディアの形、大きさに沿った字数や描き方がたちまち現れ、それに合った言葉をまた探そうと作ろうとしている。いつかどこかで行われたポーカーのハンド、買い物メモ、しりとり、連想ゲーム、いくつかの文字があって絵の具として捻り出させるほどにかっこよければ、それでよい。だが、マルスブラックとアイボリーブラックの違いがわからないようにできあがった絵を読み返すのは難しい。
文字をそのまま書くのではなく、色に置き換えるフィルターを通し、ぱっと見では語られないアクションを必要とする手間を経ることで、有機的な相関をそこに求める。言葉によっては作品を認識するという至極当たり前の状況と作品に認識されるという相互作用による見えざる相関が霧のように立ち現れる様もある。無機物と会話することの滑稽さ、難儀さ、愉快さ、或いは霧の立罩める深い森で誰かの影や匂い、音を感じ取るような、もしくは夢の中かもしれないがそのような幽玄な邂逅として辿り着くためにも作品は作られる。

原田 渓杜

私は何かを作る。
日々の雑思を形にするため、物欲を自炊するため、自分意外との中継装置にするため。
例えば作ったとして、その作品に施された幾重かのレイヤーを誰かが一つづつ透過して近づいていく。
それはスイッチで入れ替わる2人の瞬間が引き伸ばされ、長い交流の磁場が発生しているようで、このためにも作品は作られる。
ー 似たようなことに、海に入って波間に揺蕩い、うねりに添うように漕ぎ、海面をスライドする。
その長い刹那にも近しいことで、どこかで関係しているんじゃないかとも考える。
作品に入る入って来る、また作品が入っていくような感覚を掴みたい。
図り図らずも同時代的表象にコミットし、軽やかなジョークとしてやっていければと考えます。